とあるふたりの、




「ねぇ、」
「…………んー?」

彼女の問いかけに対しての彼の返事は、3秒ほどの沈黙の後に聞こえてきた。
口を開きもせず喉から発せられたそれは、返事と言うよりは寧ろ、
耳に届いた聴覚的な刺激に対する無意識な反射反応の様だった。
事実、彼の興味は未だ手元の雑誌に引き付けられた侭なのだから。

「好きなんだけど。」

今度は答えが聞こえなかった。
何が、と訊く事は余りにも無粋だと彼なりに解釈したのか、
単純に答えに詰まったのかは彼女には計り知れなかった。

「……」

沈黙の後、さほど気にした様子もなく、彼女はグラスにワインを注いだ。
貰い物のそれは白ワインだった。
特にワインが好きという訳ではなく、美味しいとか不味いとか、
そういった判断は彼女には出来なかった。
しかしながらこの沈黙の中では飲む以外することがなく、もこれで3杯目になる。
椅子の上に上げた左足を片手でそっと抱えながら、右手でとくとくとワインを注いでいく。
顔を傾げて、満たされていくグラスに集中した。目にかかる前髪が少しうざったい。

「あ、」

彼女はふと瓶を傾けるのを辞め、冷蔵庫を振り返った。

「ソーダ水、あったよね?」

相変わらず答えは聴こえて来ない。
代わりに、と言っては都合が良すぎるかもしれないが、
静かな部屋にぺらりと雑誌をめくる音が響いた。

やがてぱきん、と音がして、ペットボトルの蓋が開けられた。
しゅわわ、と気泡が消えて行くか細い音を、彼女は黙って聴いていた。
その沈黙を、彼は不可思議に感じたのだろう。
やっと彼女を振り返ると、その視界の端にワインボトルとグラスを捉えたようだった。

「おま、それシャンパングラスだろ」

聴こえた台詞は、無論彼女の望むようなものでは決してない。

「別に良いじゃない、」

胃に入れば一緒よ。飲む?って訊いたじゃない。返事もしないで。
分かってるけどさ。変な所で文句ばっかり。他に言うことないの?
彼女の台詞は飲み込まれるばかりで、発せられることはなさそうだった。
唯一彼の耳に届いたそれは、彼を呆れさせるには充分すぎるものであったようで、
彼はそそくさと視線を雑誌に戻した。
一方の彼女も当然呆れている。はぁ、とこれ見よがしに溜息を一つ。
それと同時にグラスにソーダ水を注いだ。

ワインに流し込まれた二酸化炭素の気泡は、
慌てふためくように空気を求めて水面へと浮かんで行く。
しゅわしゅわっ、と気持ちの良い小さな小さな破裂音。
こうしてあっけなく、記憶も気持ちも消えて行く。
時間なんて流れていって、やがて薄れる。
ソーダ水と混ぜ合わせられたワインのように。

彼女はひとしきり感傷に耽った後、その元凶とも呼ぶべき彼に視線を移す。
向けられた広い背、男にしては長いさらりとした髪の毛。
触れるのが好き、だったな。無意識に過去形にしているなんて事には気が付くこともなく。

その視線の先で、彼はと言えば雑誌を片手に違う事を考えていた。
何も写っていないブラウン管に視線だけを移すと、黙って此方を見遣る彼女が居た。
片手に握るシャンパングラスに注いだそれには、まだ口をつけてもいないようで。

彼女が自分を見ているという事実になのか、
ブラウン管越しに自分が彼女を見ているという事実になのかは分からないが、
とにかく何かが気恥ずかしくなり、彼は最早読んでも居ない雑誌のページをまた一枚捲るのだった。

先程、空気を振動させてその耳まで届いた彼女の言葉を、無視した訳ではなかった。
ただ、その瞬間に始動した、自分の莫大な思考回路の過程を説明するという技術的な能力を、
彼は持ち合わせていないのだと自負していた。

こうしてこの部屋の中、アパートの安っぽい蛍光灯の下、
二人で呼吸をしているという事実は何にも変えられぬ事実。
彼女が何を望んでいるのかというのは、結局の所大方の察しは付いている訳だけれども、
そう、彼は、自負しているのだった。自分には彼女を納得させるだけの力がないと。

「お前さ、」

再び雑誌に視線を戻す。先月発表されたばかりの新しいモデルのものが
煌びやかに宣伝されている。新しいものが善いという訳ではない。
そんなことは彼が一番良く知っていた。

「ん」

心なしか緊張しているような彼女の声に、不意に彼の胸には罪悪感がこみ上げた。
だが、どうやらそれは一瞬の勘違いだったようで、振り返ると眠たそうな彼女の片目が、
彼をとろんと伺っていた。

「……俺に注ぐっていう選択肢はなかったわけ」

疑問系ではない。少し咎めるような口調で彼が告げると、
彼女は片手にシャンパングラスを持ち、席を立った。
寝そべりながら彼女を見上げる彼の傍にしゃがみこみ、グラスをゆっくりと傾ける。
飲めってか、と呆れながらスローモーションで傾けられるそれを見ていた。
揺れるワイン越しに見える蛍光灯は綺麗で。
馬鹿馬鹿しいな、と思いながらもその思考を止められない。
零れる、と思った瞬間に彼女の動きが止まった。

「勿体ないからあげない」
「いやいや、それ俺が貰ったんだけど」

静かな攻防。気付くまい。気付かれまい。
もう気付いているのだけれど。気付かれてしまったとしても。
彼も彼女も、最早それに触れる事が過ちであるかのようにさえ感じていた。

スパークリングワインと化したグラスの中身の中で、気泡が静かに爆ぜ続けている。
いっそこの、名前すら付けられぬ何かも、それらと一緒に……

「ねぇ、」
「分かってる」

彼と彼女の夜は明けない。





好きだけど好きって言わない。
分かってるけど知らないフリ。
二人はそうして時間を重ねて、
心を重ね合わせないで生きている。

そんな気がした。
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*Easy Lazy Crazy*

安易で物憂げ
それでいて狂気的な素晴らしき日々。

穏やかでのんびりと
ただ夢中でいられる素晴らしき日々。